ドイツ近現代史のキーワード解説
「白バラ」の時代背景を理解するためのキーワードの解説ページ
(キーワードは順次加えていきます)
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ワイマール憲法
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ドイツ語ではヴァイマル憲法。第一次世界大戦敗北を契機として勃発したドイツ革命によって、
帝政ドイツが崩壊した後に制定されたドイツ国の共和制憲法。制定は1919年。
ドイツの憲法は、制定された都市の名をつける慣例があり、ヴァイマルも都市の名称である。
この憲法の特徴は人権保障規定の斬新さにある。自由権に絶対的な価値を見出していた近代憲法から、
社会権保障を考慮する現代憲法への転換がこのヴァイマル憲法によってなされ、その後に制定された
諸外国の憲法の模範となった、といわれている。
一方、有権者の直接選挙で選出されたドイツ国大統領に、首相の任免権、国会解散権、憲法停止の非常大権、
国防軍の統帥権など、旧ドイツ皇帝なみの強権が授与された。
これらの強権は混乱期にあった共和制成立期においては各種の反乱鎮圧に際して発動さるという
問題点も内在していた。
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国民社会主義
ドイツ労働者党
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一般にナチス、ナチ党などと呼ばれる。1919年1月に前身のドイツ労働者党が設立され、
1920年に国民社会主義ドイツ労働者党に改称した。
アドルフ・ヒトラーが指導者として率い、1933年に政権を獲得後に独裁体制を敷いたものの、
1945年のドイツ敗戦により解党した。
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第三帝国
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保守革命の思想家アルトゥール・メラー・ファン・デン・ブルックは1923年に著した『第三帝国論』の中で、
第一のライヒである神聖ローマ帝国と、第二のライヒであるドイツ帝国の正統性を受け継ぐ
「第三のライヒ(第三帝国)」の創設を唱えた。
当時ドイツ人の多く、特に右派はヴァイマル共和政を正統な国家と見なしておらず、
右派思想家達はドイツ帝国を継承する新たな「ライヒ」の出現を期待していた。
またファン・デン・ブルックの本には民族共同体を破壊する自由主義への嫌悪、
政治指導者による独裁「指導者原理」など後のナチズムと共通する部分が多い。
ナチス・ドイツでは盛んに用いられ、当時のドイツを指す言葉として知られる。
ただし、公式のドイツ国名として用いられたわけではなく、公式に用いられたのは「ドイツ国」、
もしくは「大ドイツ国」であった。
※ライヒ・・ドイツ語で大きな領域を持つ「国」を現す語。
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ミュンヘン一揆
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1923年11月8〜9日にヒトラーがワイマール共和国打倒をめざして南ドイツのミュンヘンで起こし失敗した一揆。
1923年11月8日ミュンヘンのビアホール、ビュルガーブロイケラーでカールら右翼有力政治家の集会が開催されたとき、
ヒトラーは武装した突撃隊(SA)に会場を包囲させた。
そして自ら会場に乗り込んにピストルを威嚇発射し、カールやロッソウらに「国民革命」計画の同意をさせた。
ところが会場脱出に成功したカールが国防軍、バイエルン警察に一揆鎮圧を命じたため、
翌日午前、ビュルガブロイケラーから市中へ向けて行進するヒトラーらのデモ列に警察が発砲、
死者13人およびヒトラーを含む多数の負傷者を出し、一揆は失敗。
ヒトラーはその場を逃れるも2日後に逮捕。他の首謀者とともに裁判にかけられ
1924年4月、国家反逆罪で5年の禁固刑を宣告される。
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全権委任法
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1933年3月23日にドイツで定められた、ヒトラーの政府に国会が立法権を委譲した
「民族および国家の危難を除去するための法律」を指す。
ヴァイマル憲法の憲法改正手続きにのっとって行われ、ヒトラーが制定理由を
「新たな憲法体制」を作るためと説明し、前文に「憲法改正的立法」とあるように
通常の法ではなく、憲法改正法であった。
これにより、ワイマール憲法は廃止こそされなかったものの、完全に停止状態に陥った。
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ドイツ国会議事堂
放火事件
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1933年2月27日夜、ベルリンにある国会議事堂が何者かによって放火され、焼失した事件。
現場を捜索したところ、元オランダ共産党マリヌス・ファン・デア・ルッベが見つかり、直ちに逮捕された。
ゲーリングは火災を共産党員の仕業と断定し共産党の指導者たちを逮捕することを発表、
ナチスは国会議事堂放火事件の翌日、緊急令を発し、憲法が保障する言論・出版の自由など、
基本的人権と市民的自由権を停止し(ワイマール憲法の実質的な死文化)、
また共産党を非合法化して数千人の共産党員を逮捕した。
この事件が原因となって、ドイツ共産党は非合法化(同年3月7日)され、
ドイツ国会をナチスと二分していた巨大政党・共産党は消滅した。
犯人についてはなお不明な点が残っていて、共産党による犯行説とナチスによる犯行説があるが、
ナチスが精神薄弱なマリヌス・ファン・デア・ルッベを唆して放火させたとする説が有力である。
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長いナイフの夜事件
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1934年6月30日から7月2日にかけて、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が行った
突撃隊(SA)などに対する粛清事件である。
粛清は正式な法的措置を執らずに行われ、エルンスト・レームらSA幹部、かつてナチス左派の領袖だった
グレゴール・シュトラッサー、元首相で名誉階級陸軍大将のクルト・フォン・シュライヒャーなど党内外の人々多数が
裁判を経ずに殺害された。
当局の公式発表によると77人が死亡したことになっているが、116名の死亡者の氏名が明らかになっている。
亡命ドイツ人の発表では千人以上という数値も主張されている。
事件名は、5世紀ウェールズでのザクセン人傭兵による、
ブリテン人への宴席での騙し討ち(隠し持った長ナイフによる殺害)にちなむ。
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水晶の夜事件
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1938年11月9日夜から10日未明にかけてドイツの各地で発生した反ユダヤ主義暴動。
ユダヤ人の住宅、商店地域、シナゴーグなどが次々と襲撃、放火された。
この事件によりドイツにおけるユダヤ人の立場は大幅に悪化し、
後に起こるホロコーストへの転換点の一つとなった。
なお、水晶の夜という名前の由来は、破壊されたガラスが月明かりに照らされて
水晶のようにキラキラきらめいていたことにあるといわれている。
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