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               目  次

           1.白バラ抵抗運動とは


           2.白バラに加わった人々

            



          1.白バラ抵抗運動とは


      ヒトラーの独裁下にあったドイツでは、ナチスに対していくつもの抵抗運動がありました。

      1942年から43年にかけて「DIE WEISSE ROSE」(白バラ)と題したビラや
      「打倒ヒトラー」などのスローガンをペンキでミュンヘン市内の壁に書き、
      ヒトラーとナチス・ドイツを公然と批判したのは、ミュンヘン大学の学生5名と哲学教授でした。

      ビラは計6種類が作られましたが、ナチス発祥の地であるミュンヘンでの、
      この抵抗運動は、ナチスにとって看過できないものでした。

      1942年7月、ソ連に侵攻したドイツは、南ロシアのスターリングラードの大半を制圧しましたが、
      11月には、逆にソ連軍に包囲され激しい戦闘のすえ、1月にソ連に投降しました。

      このスターリングラードの戦いの敗北で、戦況が不利な情勢になったドイツにとって、
      「白バラ」の存在は、ナチス・ドイツの支配をゆるがす影響をもたらしました。

      当局は、この「白バラ」のメンバーを執拗に捜査、追跡をしました。

      1943年2月18日、ついにメンバーのハンス・ショルとゾフィー・ショルが逮捕されます。
      2月19日には、同じくメンバーのクリストフ・フロプストも逮捕されます。

      この3人に対する裁判は、ナチスが設置した「民族裁判所」で行われ、
      ヒトラーの意を汲む民族裁判所長官フライスラーが、直々に裁判を執行しました。

      ナチス・ドイツの政治方針を貫徹するための「民族裁判所」は、
      いわば「見せしめの裁判」を行うことがその使命でした。

      1943年2月22日に出された判決は「国家に対する反逆罪および利敵行為」で死刑。
      そして即日に「死刑」が執行されたのでした。

      ナチスは、その他のメンバーであるアレクサンダー・シュモレル、ビリー・グラーフ、
      そしてミュンヘン大学の哲学教授だったクルト・フーバーも逮捕し、処刑台に送りました。

      「白バラ」グループの関連で逮捕されたのは、ミュンヘン周辺で約80名、
      ハンブルク周辺では約50名が、逮捕されています。
      逮捕された者の内、ハンブルクでは、8名が処刑されたのでした。

      これが後に「白バラ抵抗運動」として知られる反ナチ、反ヒトラー抵抗運動の概略です。



          2.白バラに加わった人々

                そのプロフィール


  
   ハンス・ショル (医学専攻学生) 1918年9月22日生まれ

      1939年、ミュンヘン大学入学。1940年に招集され、学生中隊としてフランスへ派遣。
      ドイツ軍の横暴さを目の当たりにして反ナチの立場を強める。
      1940年秋、大学に戻り、勉学を再開。「白バラ」を作り始める。
      1942年7月、今度は学生中隊としてソ連へ派遣される。
      1942年10月、ミュンヘンに戻り「白バラ」の作成を継続、1943年2月18日に逮捕。
      2月22日、悪名高いナチスの「民族裁判所」(裁判所とは名ばかりのナチスの機関)で
      「国家に対する反逆罪および利敵行為」で死刑判決、即日処刑された。


   ゾフィー・ショル (生物学・哲学専攻学生) 1921年5月9日生まれ

      ハンスの実妹。
      1940年、高校卒業試験をパス。
      当時は大学に通う前提として、労働奉仕隊に入らねばならず、保母になって働いた。
      しかし、保母では労働奉仕にはならず、2年間、戦時勤務についた。
      1942年5月ミュンヘン大学入学。9月に再び労働奉仕に配属。軍事工場で2ヶ月働かされる。
      この軍事工場で、ソ連の捕虜の女性に会う。
      1943年2月18日に逮捕。2月22日「民族裁判所」で死刑判決、即日処刑された。


   アレクサンダー・シュモレル (医学専攻学生) 1917年9月16日生まれ

      母はロシア人。父もロシアで生まれた。
      1937年、兵役のため国防軍に入る。兵役を終え、1939年ハンブルク大学入学。軍医部に配属。
      1940年、フランスへ遠征。1940年秋、ミュンヘン大学で勉学再開。学生中隊に所属。
      ハンスたちと「白バラ」を作り始める。
      1942年7月、ソ連へ派遣。10月ミュンヘンに戻り「白バラ」を作る。
      1943年2月24日逮捕。4月19日民族裁判所で死刑判決。7月13日処刑。


   クリストフ・フロプスト (医学専攻学生) 1919年2月6日生まれ

      1937年、高校卒業試験をパス。労働奉仕を済ませ、空軍で兵役につく。
      1942年、ミュンヘン大学で医学を学び始める。
      1940年、21歳で結婚。3児がいた。
      1943年2月19日に逮捕。2月22日、民族裁判所で死刑判決、即日処刑された。
      処刑されたとき、3番目の子どもは生まれたばかりであった。


   ヴィリー・グラーフ (医学専攻学生)  1918年1月2日生まれ

      1937年、高校卒業試験にパス。
      ボン大学に入学するが、1939年、兵役で入営。フランス、ユーゴに遠征。
      1941年〜42年、ソ連に遠征。
      1942年春、ミュンヘン大学で勉学を再開。「白バラ」を作り始める。
      1943年2月18日逮捕。4月19日民族裁判所で死刑判決。10月25日処刑。


   クルト・フーバー (心理学・哲学教授) 1893年10月24日生まれ

      ミュンヘン大学は、ナチス発祥の地であるミュンヘンにある非常に保守的な大学であった。
      教員もほとんどがナチの党員であり、大学も完全にナチの支配下にあった。
      フーバーは、その中にあって、学部を越えた学生の集まる講義で知られていた。
      「図書館にある○○○○の本は、読んではダメだ」というような形で、わざと学生に本を紹介する
      ようなことをしていたという。
      1943年2月27日逮捕。4月19日民族裁判所で死刑判決。7月13日処刑。


    ◎「白バラ」グループの関連で逮捕・処刑された人たち
    
       彼ら6人以外にミュンヘン周辺では約80名が逮捕。
       ハンブルグ周辺では約50名が逮捕された。
       ハンブルグでは、逮捕・有罪判決を受けた人の内、8名が処刑された。


    ◎ショル兄妹の父 ローベルト・ショルについて

       ショル兄妹が生まれたとき、ローベルトは南ドイツの田舎町の町長であった。
       第一次大戦時では、武器を手にしての兵役を拒否し、衛生隊に配属。
       赤十字で負傷兵の看護に当たり、そこで看護婦をしていた母と結婚。
       二人の間には、三女(インゲ、エリザーベト、ゾフィー)と二男(ハンス、ヴェルナー)が生まれた。
       プロテスタントの信者で、中世的な田舎町では、進歩的態度が、住民としばしばぶつかり、
       やがて、ウルム引っ越した。そこで、税理士及び経営コンサルタントをしていた。
       ナチに対しては一貫して反対の姿勢を持ち、1942年に反ナチの言動で逮捕。
       8月の裁判で、4ヶ月の禁固刑となった。
       ショル兄妹の逮捕に関連して、再び逮捕。裁判で2年の懲役刑となった。




(「白バラ」U 部分 注:実際に配布されたビラのコピーではない)












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